2018年4月25日水曜日


ねたみ

 神は、イスラエルが守るべきおきてとして十戒をお授けになりました。これに照らし合わせて人は罪に定められます。
 今日私がお分かちしようとしている『ねたみ』は、「殺してはならない」(第6戒)「隣の人の家を欲しがってはならない」(第10戒)という二つの戒に触れます。
 カインは、弟アベルが自分より優れたささげ物を神にささげたことで彼をねたみました。アベルが自分より正しいことを知り、それがゆえに許せませんでした。彼は弟を殺してしまいました。
 サウルはダビデをねたみました。彼らがぺリシテ人を打って帰ってきた時、女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と笑いながら歌う歌声を聞き、サウルは非常に怒り不満に思いました。この日以来、サウロはダビデを疑いの目で見るようになり、殺そうと機会を窺います。
 また、初代教会時代、ステパノが殉教したのも、彼が正しかったからです。祭司長、律法学者たちは、彼が自分たちを裁くのを見るや、分別を失い一斉にステパノに殺到し、石で打ち殺しました。
 イエスさまもまた、ねたみから殺されてしまったと言えるでしょう。祭司長、律法学者はイエスさまを十字架にかけて殺しました。イエスさまが正しい方であること、群衆の支持を集めていること、どれもが彼らにとってねたみと憎しみの対象でした。
 ねたみは、この様に嫉妬と憎しみがペアになって出現してきます。その行き着く所は殺人です。正しい者を正しいが故に憎み殺す、その背後にはサタンの介在があります。ねたみは原罪の一つです。
 イエスさまは殺されました。しかし、復活を遂げられました。それは、私たちを罪から解放させるためです。それ故、悔い改め、神の元に帰りましょう。神はその道を備えておられます。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年4月29日号(第987号)より転載—

2018年4月18日水曜日


ペテロ

 何をしても憎めない人。そういう人が世間にはいるものです。イエスの弟子の筆頭であるペテロもその1人だと私は思います。
 イエスさまは十字架につけられる前夜、ご自分が、祭司長や律法学者たちによって捕縛されると弟子たちに語りました。ペテロは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても私は決してつまずきません」と言いました。ペテロは、自信満々でした。
 しかし、イエスさまは「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と語られました。
 「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」ペテロはこう言いました。
 ところが、ふたを開けてみるとどうでしょう。弟子たちは皆、イエスを見捨てて散り散りに逃げ去ってしまいました。
 去りがたいペテロは、大祭司の家の中庭まで入って様子を窺っていました。すると女中が、あなたはイエスと共にいた、と言いました。ペテロは「何を言っているのかわからない」と否定しました。さらに別の女中が、次いで居合わせた人が問い詰めると、「そんな人は知らない」とついにのろいをかけて誓い始めました。
 するとたちまち鶏が鳴き、ペテロはイエスのことばに思い至り、出て行って号泣しました。
 ペテロは深く自分自身に失望しました。確かにペテロはイエスさまへの深い愛を持っていましたが、弱さ、を知りませんでした。イエスさまはそのことを教えられました。そして、ご自身の愛によって、後にペテロを建て上げられます。
 ペテロを愛された主は私たちをも愛し、弱さを強さへと変えてくださいます。号泣してもいい。イエスの愛はあなたをも立ち上がらせます。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月22日号(第986号)より転載—

2018年4月11日水曜日


父の喜び

 ルカの福音書15章には、「放蕩(ほうとう)息子のたとえ」として有名な例話があります。
 ある父親と兄と弟が主要な登場人物で、弟は父に財産の分け前を求め、それを得ると何もかもまとめて遠い国に旅立ちました。
 そして放蕩ざんまいをした挙げ句、大飢饉(ききん)が起こり、食うにも事欠くようになりました。そこで、ある人のもとに身を寄せ、豚の世話をしていました。彼は飢えて、豚の食べるいなご豆で飢えを満たしたいほどであったにもかかわらず、誰一人として、彼に与えようとはしませんでした。
 そこで弟は、父の元に帰ろうと決心します。「お父さん。わたしは天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」と言うつもりで。
 ところが、まだ家まで遠かったにも関わらず、父は弟を見付け、走り寄っては彼を抱き、口づけしました。そして、最上の着物を着せ、指輪をはめさせ、靴をはかせ、肥えた子牛をほふり、祝宴を始めました。
 そこに、畑仕事を終えて兄が帰ってきました。状況を聞いて兄は、私はあなたに忠実に仕えているのに、友人と楽しめと言って子やぎ一匹くれたことがない。なのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰ってきたこの息子には、子牛をほふらせなさったのですか、と怒りをあらわにしました。
 父は、言いました。「私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」
 一人の罪人が神の前に立ち返ることを神はこの上ない喜びとされます。これがこの例話の主題です。あなたもまた主の元に帰りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月15日号(第985号)より転載—

2018年4月4日水曜日


主を恐れる女

 かつて父が大学の研究室を訪ねてくれたことがありました。そこで働く女性講師が応対してくれました。お前のなりたい姿はあの先生みたいなのか。後で父に尋ねられて、初めてそうではないことに、気が付きました。
 明晰(めいせき)な頭脳に理性的な受け答え、学者として非の打ち所のない先生です。しかし、なりたいという姿ではありませんでした。私が理想とするのは、聖書の箴言(しんげん)31章の12節から31節に描写されている「主を恐れる女」です。
 それはどんなものでしょう。箴言にはこう書かれています。「彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない(12節)」「彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使いの女たちに用事を言いつける(15節)」「彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる(20節)」「彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ(25節)」「彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない(27節)」「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる(30節)」。こんなあんばいです。
 そもそも聖書によると、女性は男性の助け手として男性から造られました。助けになるよう女性には優れた能力が与えられています。専業主婦であっても侮れません。現に箴言31章の主を恐れる女は専業主婦であり、かつまた、手広く活躍しています。
 私も専業主婦ですが、私の食卓は、家の中でもっともにぎやかな空間です。家族のニュースが飛び交い、良い事も悪い事も祈りになります。家庭の中心にはイエスさまがおられます。
 こういう訳で、主婦よ! 大志を抱きましょう。あなたの小さな祈りは聞かれています。何一つとして地に落とされることはありません。主を恐れる女は敵の門を勝ち取ります。(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月8日号(第984号)より転載—