2018年1月17日水曜日

二十六聖人
 今年もあとわずかで日本二十六聖人殉教記念日を迎えます。1597年2月5日、長崎の西坂で、子ども3名、外国人6名を含む26名が磔刑(たっけい)に処せられ殉教しました。彼らは日本で最初の殉教者となりました。そして、その信仰のバトンを受け継ぐ者として、私たちの教会は、毎年この日に集まり、聖会の時を持っています。
 二十六聖人が殉教した同じその西坂に立つことは、特別な恵みです。併設されている記念館には二十六聖人の遺骨の一部が置かれており、西坂には特別なご臨在が注がれています。
 また、二十六聖人のモニュメントには、次のような聖書の言葉が刻まれています。
 「人若し我に従わんと欲せば、己を捨て、十字架をとりて我に従うべし」(だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい)(マルコの福音書834節)これはイエスさまが語られたことばであり、二十六聖人はこのことばに応答し、また全うしたのです。
 殉教者の血は、リバイバルの種であるとよく言われます。聖書でも、詩篇116篇15節に「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」と書かれています。さらにへブル人への手紙1113節にも、「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」と書かれています。確かにその死は無駄に終わることなく、主は報いとしてリバイバルを起こしてくださいます。
 二十六聖人の殉教を皮切りに日本は、おびただしい数の殉教者を出しました。しかし、その血の真の報いはまだこれからだと私は思います。そして今、いよいよリバイバルの本戦が起ころうとしています。 (イスラエル北野)


み声新聞2017年1月21日号(第973号)より転載—

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