2018年3月7日水曜日

仕 事

 私は、牧師である夫とともに、何名かの方々の臨終に立ち会わせていただきました。多くの方々が、死を前にしてイエス・キリストを救い主と信じて救われました。また、既に救われている人の中には、御使(みつか)いを見た人もいます。
 天では全ての病、労苦から解放されます。天国が備えられていることは、どれほどの慰めでしょう。
 特に印象深いのは、私の父の召天です。召されてから4、5日は、永遠のいのちを頂いた父の喜びがしんしんと私にも伝わってきました。
 黙示録22章には天国の様子が書かれています。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした」(1、2節)というものです。
 父が、今や天でいのちの水の川に飛び込んで、心ゆくまでその水を飲み、木の葉を食べて、いやされ、あふれるばかりの喜びに満たされているような思いが、私に伝わってくるのです。
 けれども、ひと月にもなるとその思いも変わりました。天国には、天国の仕事があって、父もそれを行うために天国での持ち場に就いた、という思いです。
 先日、私は白馬スネルゴイキャンプに参加しました。賛美に働くご臨在が素晴らしく、天にいる聖徒たちと共に賛美しているかのように、私たちは心ゆくまで主を礼拝しました。そして、この礼拝こそが、私たちの真の仕事、永遠の仕事なのだと主に語られました。
 天国は私たちの霊の故郷です。私たちの人生は、死で終わるものではありません。永遠という時間を、私たちは神とともに生きるようになるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月11日号(第980号)より転載—

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