2018年3月14日水曜日

犠 牲

 愛はキリスト教の神髄をなすものです。愛に関しては、コリント人への手紙第一13章にこう書かれています。
 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます」(4~6節)「愛は決して絶えることがありません」(8節)
 愛には多くの側面があります。そして、愛のある所、自己犠牲があります。イエスさまもまた、「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネの福音書1513節)と語っておられます。人を生かすために自分を捨て、犠牲となることいとわない強い思い、これこそ愛ではないでしょうか。
 かつて書物で、ある牧師のお嬢さんの話を読みました。彼女は船の事故に遭遇しました。ところが救命胴衣が全員に行き渡りませんでした。彼女は彼女の胴衣を友人に譲り、言いました。「私はイエスさまを信じているから天国に行ける。でもあなたはそうじゃない。生きて戻ったら必ず教会に行って。そしてイエスさまを信じて」。こう語って彼女は命をささげました。
 この話は多くの人々の感動を呼びました。真の愛は自分の命を投げ出すことさえも惜しみません。
 イエス・キリストは、私たちを永遠の愛で愛してくださいました。イエスさまは神のひとり子です。にも関わらず、私たちを救うために卑しいものとなり、私たちへの犠牲となって十字架を忍んでくださいました。イエスさまの死によって私たちはいのちを得ました。
 神にある犠牲は、一つの愛の形です。自分を捨てるまで相手を愛し、相手の幸いを祈る。これにまさる愛はありません。(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月18日号(第981号)より転載—

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