2017年12月28日木曜日

祈 り

祈りは一見、地味な仕事に見える働きです。しかし、長年にわたって、私の信仰生活を支えてくれたのは、他でもない祈りでした。
 教会の一室で、イエスさまを個人的な救い主として信じ、心にお迎えした時、祈ろうと二つの手を組み合わせると、手にぐっしょりと汗をかいていました。しかしそれは不快なものでなく、指と指がしっくりきて、ああ、これで祈れる手になった、救われたんだ私はと、むしろ、うれしくなりました。
 イエスさまもまた、この世にあっては祈りの人でした。そして、どう祈るか模範を示されました。地上で最も力ある祈りは、ゲツセマネでイエスさまがささげられた祈りだと思います。全ては私たちを救うため、イエスさまはご自身の神としてのあり方を捨て、十字架で死に、私たち人類の贖(あがな)いを成し遂げられました。その使命を全うする前夜、ゲツセマネで祈りの格闘があったのです。
 マタイの福音書26章によれば、ゲツセマネでイエスさまは、お弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(38節)と語りました。そして祈られました。「わが父よ。できますなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(39節)
 この祈りが、サタンを砕く勝利となりました。なぜなら、イエスさまが自分の願うようにではなく、神のみこころを全うすることを求めたからです。この従順さによって神のみこころは成就されました。
 祈りとは何でしょう。私が得た答えは、状況のいかんに関わらず「神さまのご介入を求める行い」だと思います。どんな厳しい状況の中にあっても、祈りによって、神さまは私たちの人生のあらゆる場面で介入してくださいます。
 祈りは神の力です。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年12月31日号(第969号)より転載—

0 件のコメント:

コメントを投稿