2017年10月19日木曜日

礎の石

 私たちは神さまに深く愛されています。どのようにしてそれを知るのでしょうか。マタイの福音書2142節には、このように書かれています。
 「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」
 果たしてこれはどう意味でしょうか。
 私の属する教会では、開拓当初から繰り返し、このみことばが語られてきました。集められて来たものは皆、帯に短かしタスキに長しで、どこを取っても世からの称賛を受けるようなものは持ち合わせていませんでした。よく言えば原石、はっきり言えば問題児の集まりでした。ところが、神は、その働きにおいてエリートたちを選ばず、真逆な私たちを選ばれたのです。私たちの目には不思議なことです。
 私たちが神のあわれみを受けたのは、私たちが主に望みを置いた事によると思います。確かに私たちは、はちゃめちゃの規格外です。しかし一人一人、主を愛することにかけては真実でした。私たちは、主に見捨てられたら行く所がない者たちばかりだったのです。
 主もまたその事をご存じで、そのような私たちをことさらに愛し慈しんでくださいました。それ故、逆転が生じたのです。家を建てる者たちの見捨てた石というのは私たちのことです。使い物にならないと人々に捨てられた石が、礎の石(土台石)となりました。これを愛と呼ばずして何が愛でありましょう。
 こういう訳で、私たちは神さまのご愛の中にいつも身を置くことができます。
 役に立たない。この働きには規格外だ、と世が見捨てた石が、すなわち私たちが、礎の石として神さまによって据えられました。私はここに神の愛を覚えるのです。これは、大きな恵みです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年10月22日号(第959号)より転載—

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