2017年4月17日月曜日

信 仰
 私は信仰に入って34年になります。しかし、信仰に関してはまだまだ幼子です。
 信仰を用いましょうという場面に出くわすと、信仰はどうやったら持てるのだろうと、まず苦手意識が頭をもたげてきます。感謝したり、飛び上がってみたり、まるでオリーブの実を搾油するように、全身から搾り出すような、そんなお粗末なあんばいです。
 これに関しては、サタンが関与していると私は思います。神さまに頼まなくても普通に進んで行けるのならそれで良いじゃないですか。そのような思いが入ってくるのです。一見もっともと思える世の言葉ですが、私たちを信仰から、また生ける神から遠ざけていきます。
 多くの人が信仰は難しいものだと思っています。けれども、実は非常に簡単なものなのです。幼子でもできます。ポイントは「行い」にあります。ヤコブ書には、「信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです」(2章17節)と書いてあります。信仰は行いから入ると生きたものになります。信仰と行動には密接な関わりがあるのです。
 以前、教会にMさんという人がいました。Mさんは電話を持っていませんでした。仕事上不便なので、これが与えられるようMさんは祈り始めました。そして信仰を使いました。不要になった電話機をもらって、コンセントを入れ、「Mです。はいそうです」と語り掛けたのです。もちろん回線はつながっていません。にもかかわらず、つながっているかのよう振る舞ったのです。この信仰は実を結び、速やかに回線をつなげる必要が満たされました。
 現代においても信仰は生きて働きます。信仰の踏み出しは、神のご栄光の現れとなります。私たちは信じて祈り、信仰を持って進みましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年4月16日号(第932号)より転載—

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