2017年5月21日日曜日

ヨセフの2年間

詩篇に「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」(105篇19節)という一文があります。彼とはヨセフのことです。ヨセフは、ヤコブの12人の息子の中でも特に愛された子どもでした。
 ヨセフは自分が将来偉くなることを知っていました。しかし子どもの浅知恵でストレートにその事を言うものですから、それがまた、兄たちのねたみを買い、彼はエジプトへ奴隷に売られました。そこから今度は無実の罪を着せられて、囚人になり、示しとは真逆の人生をたどっていきました。
 そのヨセフに転機が訪れました。囚人となったパロの献酌官(けんしゃくかん)と調理官の夢を解き明かしたことから、彼らに無実の自分の事を話し、パロにとりなしてくれるよう願いました。彼はこれで牢獄から出られる、と思ったでしょう。ところが、彼は忘れられたのです。ヨセフの希望はついえました。本当の試練はむしろそこからでした。その後、献酌官がヨセフの事を思い出すまでの2年間、ヨセフは待たされ試され、忍耐の炉で練られました。
 しかし、この2年間でヨセフは神に栄光を帰す器として立て上げられました。彼は信仰の試しを忍び通したのです。神のことばはヨセフの上に速やかに成就し、彼が幼い時に見た幻通り、1日にして彼はエジプトの大臣となりました。
 待つこと、試されること、耐えること、これらは試練の3点セットです。私たちにとって試練は喜ばしいものではありません。しかし、どのような試練も、忍耐の末に私たちに与えようとしておられる神さまの約束の成就に比べれば、取るに足りないものだと私は考えます。あなたが受けた約束もまた、時が来たなら実現します。忍耐をもって、最後まで堅く握りましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年5月21日号(第937号)より転載—

2017年5月17日水曜日

贖いの代価
 なぜイエスさまは天からこの地上に来てくださったのでしょうか。なぜ父なる神さまは、ご自身のひとり子イ

エスさまさえも惜しまずに私たちに下さったのでしょうか。なぜイエスさまは神の子としてのあり方を捨てて、

十字架で死なれたのでしょうか。
 それは、私たち一人一人をこよなく愛しておられるからです。ヨハネの福音書にはこのように書かれていま

す。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりと

して滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3章16節)
 御子イエスさまは、神さまであり、父なる神のひとり子です。神は世を愛し、また人を愛されました。それ

故、私たちがひとりとして滅びることのないよう私たちを贖(あがな)う、救いの計画を用意しておられました


 私たち人間は罪人で、その行き着くところは死と滅びです。誰も私たちを救うことができません。だからこ

そ、神さまは時を定め、イエスさまを世に送ってくださったのです。イエスさまは何の罪もないお方です。屠(

ほふ)られる子羊さながらにその身に私たちの罪を担い、カルバリの丘で、十字架で死なれました。流され

たこの主の血潮は私たちの値段、贖いの代価です。ここにイエスさまは、贖いを成し遂げられ、3日目に

復活されました。
 このキリストの前に、自らの罪を告白し悔い改めるなら、どんな罪であっても全て赦(ゆる)されます。私

たちは、あたかも1度も罪を犯したことがない人が受けるかのような、完全な神の祝福を受けるものとなっ

たのです。そして、主の復活をもって人類は死にも打ち勝ちました。私たちには、永遠のいのちが与えられ

ています。あなたの心にイエスさまをお迎えしましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年5月14日号(第936号)より転載—

2017年5月7日日曜日

天の故郷
 疾風怒濤(どとう)の時代とはよく言ったもので、思春期の頃、何度か自殺を考えました。あの頃は自分を愛することができないで、死ねば自分は無くなるものだと思っての事でした。サタンにだまされ、知りもしない愛なる神さまに反逆する心を持ち、死を愛し、あと一歩で永遠の滅びに行くところでした。
 しかし神さまはあわれんで下さり、惜しんでさえ下さり、救いにあずからせて下さいました。
 そして、この中で私は、たとえ自分が死んでも自分は「無」にはならないのだ、ということが分かってきました。自分の肉体は滅ぼせても、霊を滅ぼすことなど、神さま以外できることではありません。「死んだら無になる」とはとんでもない教えです。神さまがおられる限り、私たちは神に対して生き続けています。自殺なんかしても何の解決にもなりません。
 こういう訳で、クリスチャンになって死生観が変わりました。自殺の一件も、刃が欠け鈍刃になったようになり、意味がなくなりました。救われて私は、自分の死後の行き先は、「無」でも「滅び」でもなく、神が下さる永遠のいのちにあり、天の御国であると知ったからです。
 死は終わりではありません。むしろ永遠という時代のスタートに立つ新しい始まりです。誰であっても、何をしたとしても、イエスさまの救いを頂いた私たちは、神の子とされ、永遠のいのちが与えられています。そして、人生の終わりに、やがては天に迎え入れられるのです。そこは私たちの永遠の故郷、天の故郷です。神さまは私たちの目の涙を拭って下さり、その全ての労苦を慰めて下さいます。
 死は人類の最大にして最後の敵と言われています。しかし恐れるには及びません。信仰は既にそれに打ち勝っているのですから。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年5月7日号(第935号)より転載—

2017年5月4日木曜日

神の守り
 先日、主の助けと守りのわざを見ました。
 私たちは北海道に住んでいます。広大な北海道での宣教には車は不可欠で、毎月2000キロは走っています。12月に車検を通した折、タイヤの不自然なへりを指摘されました。しかし、そのまま車検は通ったので、差し迫った問題ではなかろうと思っていました。
 そうこうするうちに、オイル交換の時期が来て、作業場で、例のタイヤの箇所を見せてもらうことになりました。すると、何とすり減ってワイヤがむき出しになっていました。家から工場までは、車で5分ほどの距離です。しかし、その5分の間にもバーストが起きても何ら不思議ではない、と整備の人に言われました。
 私たちは驚きました。翌日には小樽に、次いで室蘭に、函館にと、宣教の予定がありました。もしも、バーストの危険を知らずに運転していれば、間違いなく途中で大事故を起こしたことでしょう。よくあの時タイヤを点検したものです。そこには主の特別なご介入があったと思います。
 そういえば2、3カ月前から車に乗るたびに、危険だ、という思いが来て、そのために祈っていました。神さまは、ただ一方的な恵みの手によって、危険から私たちを守ってくださったのです。
 詩篇127篇1節に、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」と書かれています。私たちはあれこれ動きますが、主がしてくださらなければ何も成らないことを聖書は語っています。人の手のわざはむなしいのです。
 神さまは救い主です。また折にかなった助け主です。あなたの人生にも神さまが必要です。主を求めましょう。そしてあなたもまた、神が下さる恵みのうちを歩んでください。
 
(イスラエル北野)
み声新聞2017年4月30日号(第934号)より転載—

2017年4月23日日曜日

イエスは医者です

 マルコの福音書2章で、イエスさまはこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(17節)。これは、どういう意味でしょうか。
 これは、イエスさまが、アルパヨの子レビの家で食卓に着かれたときに語られたことばです。イエスさまの食卓にはパリサイ人や律法学者、彼らエリートのほかに、罪人や取税人も身を寄せていました。それをとがめたところ、イエスさまは前述のように語られたのです。
 顧みると、私にも医者が必要な年月がありました。病人というものは、社会のしわ寄せをもろに受ける、弱い立場にあります。一体、弱い私では受け入れてもらえないのでしょうか。病気になったのは、私のせいでしょうか。病苦もさることながら、闘病中の心の苦しみはそれ以上でした。さげすむ目、好奇の目にさらされることもしばしばで、医者であっても心無い言葉を語ることがあり、救いがありませんでした。
 箴言1814節には「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか」という一節があります。誰にも理解されないこのひしがれた心の苦しみを、イエスさまは知ってくださっています。
 またイエスさまは、マタイの福音書1220節でご自身のことを「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」と語られました。
 世では、病人や弱い者を見下すことが往々にしてあります。しかし、イエスさまは、あなたと同じ目線であなたに語り、ありのままのあなたを愛してくださり、また、あなたを守り、あなたの力となってくださいます。イエスさまは本当のお医者さまです。あなたの救い主です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月23日号(第933号)より転載—

2017年4月17日月曜日

信 仰
 私は信仰に入って34年になります。しかし、信仰に関してはまだまだ幼子です。
 信仰を用いましょうという場面に出くわすと、信仰はどうやったら持てるのだろうと、まず苦手意識が頭をもたげてきます。感謝したり、飛び上がってみたり、まるでオリーブの実を搾油するように、全身から搾り出すような、そんなお粗末なあんばいです。
 これに関しては、サタンが関与していると私は思います。神さまに頼まなくても普通に進んで行けるのならそれで良いじゃないですか。そのような思いが入ってくるのです。一見もっともと思える世の言葉ですが、私たちを信仰から、また生ける神から遠ざけていきます。
 多くの人が信仰は難しいものだと思っています。けれども、実は非常に簡単なものなのです。幼子でもできます。ポイントは「行い」にあります。ヤコブ書には、「信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです」(2章17節)と書いてあります。信仰は行いから入ると生きたものになります。信仰と行動には密接な関わりがあるのです。
 以前、教会にMさんという人がいました。Mさんは電話を持っていませんでした。仕事上不便なので、これが与えられるようMさんは祈り始めました。そして信仰を使いました。不要になった電話機をもらって、コンセントを入れ、「Mです。はいそうです」と語り掛けたのです。もちろん回線はつながっていません。にもかかわらず、つながっているかのよう振る舞ったのです。この信仰は実を結び、速やかに回線をつなげる必要が満たされました。
 現代においても信仰は生きて働きます。信仰の踏み出しは、神のご栄光の現れとなります。私たちは信じて祈り、信仰を持って進みましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年4月16日号(第932号)より転載—

2017年4月12日水曜日

リバイバルソング
 顧みると、私の人生を変える素晴らしい場面にはいつも賛美がありました。賛美には特別な力があり
ます。
 18歳の時、私は、M教会の祈祷(きとう)室で救いを受けました。事の始まりは、牧師さんが、今ここ
に、聖霊さまが満ちているので、祈ると神さまのご自由なみわざが現れますよ、と祈りを勧めてくださったこ
とによります。初めて聞く話にちゅうちょしましたが、何が起こるか知りたいという気持ちが勝って、祈ってい
ただくことにしました。
 祈りの中では「平安」という言葉が繰り返し語られました。すると、からだが右へ右へと押されるのです。
ついに畳の上に身を投げ出してしまいました。恥ずかしくて、今もう身を起こそうとしたところ、不意に賛
美の歌に打たれました。昔、日曜学校で習った「いつくしみ深き」です。「などかはおろさぬ負える重荷を
」の一節が私の霊に触れ、私は主の元に帰りました。
 こうして、賛美のうちに私は救いにあずかりました。ちょうどその頃、アメリカでヒットした『リバイバルソング
』が、海を越えて日本でも歌われるようになっていました。特に「シング・ハレルヤ・トゥ・ザ・ロード」という
歌は、単純でありながらも、きよさに満ち、歌うと鳥肌が立つほど深いご臨在がありました。こうして賛美
の中で、私の霊性は豊かに育まれていきました。
 あれから30年。今では、私たちの教会にも多くのオリジナルゴスペルが与えられ、多くの恵みとともに、
主はさらに近いお方になりました。
 詩篇22篇3節には、「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と
書かれています。賛美の中に主はおられます。私たちは賛美を通して主と交わることができます。リバイ
バルの歌を歌いましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年4月9日号(第931号)より転載—

2017年4月2日日曜日

試練と忍耐
 ヤコブの手紙1章には、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(2節)とも、「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」(12節)とも書かれています。
 試練は、できれば避けたいものです。しかし、耐え抜くことを通していのちの冠を受ける、というのです。確かに私たちの霊的成長は試練を通して全うされます。しかし、ここには落とし穴もありました。
 というのは、20年ほど前の事になりますが、ある男性が興味深いことを証ししておられたのです。それは、試練のことです。その人は家族を巻き込んだ大きな試練に入りました。困難の中で妻や子どもは必死になって解決を祈っていましたが、その人は冷めた傍観者的な態度を取り、心ひそかにこの問題から退いていたといいます。
 やがて、時が満ち、試練が喜びに変わる日がやってきました。神さまによる問題解決が現され、試練を最後まで受け切った妻子は、神さまとそのみことばの真実さを体験し、確信を持って次の段階へ進みました。しかし、試練から逃げた自分は、その信仰の確信にはあずかれなかった、というのです。受けるべき訓練を受けそびれたのです
 もし皆さんが今試練にあるなら、真正面からそれに向かい合い、主が良しと認めるところまで耐え抜いてください。試練は信仰の確信を与えてくれます。その確信は偉大なものであり、いのちの冠さえも与えられるものなのです。
 さまざまな試練が許されるのは、神さまや信仰に対しての確信を受けるためです。試練を通して現される、神さまの祝福の計画があります。誘惑に立ち向かい、忍耐を働かせ、召しを全うしましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年4月2日号(第930号)より転載—

2017年3月29日水曜日

愚かな娘と賢い娘
 聖書は往々にして、奥義をたとえで語る傾向があります。聞く耳のある者だけが聞きなさいということなのでしょうか、マタイの福音書25章の例話もその一つで、再臨(イエス・キリストが王として再び地上に来られること)に対する備えを語っています。
 天の御国は、それぞれがともしびを持って花婿を迎える10人の娘のようだと言います。10人のうち、5人は愚かで5人は賢い娘でした。愚かな娘はともしびは持っていましたが、油を用意していませんでした。他方、賢い娘はともしびとともに入れ物に油を入れて持っていました。
 花婿はキリストのことであり、花嫁はみからだなる教会を指しています。花婿が来るのが遅れたので、皆うとうととしていたところ、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がしました。娘たちは、皆起きて、自分のともしびを整えました。ところが、愚かな娘たちのともしびは今にも消えそうでした。そこで、「油を少し分けてください。私たちのともしびは消えそうです」と賢い娘たちに言ったところ、「いいえ。あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。店に行って、自分のをお買いなさい」と言われました。
 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来て、用意のできていた娘たちは、彼と一緒に婚礼の祝宴に行き、戸が閉められました。愚かな娘は、ご主人さま、開けてくださいと願いましたが、心を変えてもらう余地はありませんでした。
 イエス・キリストは、この終わりの時代に再臨されます。まだ来ないからといって世にふけり、あるいは眠っているなら、その日は盗人のようにやってきます。私たちは、信仰のともしびとともに、聖霊に満たされていることが必要です。目を覚まし、忍耐を働かせて再臨に備えましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年3月26日号(第929号)より転載—

2017年3月20日月曜日

心の貧しい者は幸いです
 マタイの福音書5章には、「山上の垂訓」と呼ばれるイエスさまの説教が記されています。その中の一つに「心の貧しい者は幸いです。天の御国
はその人たちのものだから」(3節)という一節があります。
 心の貧しい者という表現は、心の豊かさに飢え渇いている者と読み替えることができます。神さまというお方は人の心を読まれ、何でもお見通し
です。そして私たちが、強さにあるより、むしろ弱さにあることを良しとされるお方です。
 なぜ心の貧しいことが心の豊かであることに勝っているのでしょうか。それは、心が豊かであると、満ち満ちていて、もうそれ以上入るべき心の隙
間がないからです。主を心の中心にお迎えしようにも、その余地がないのです。グラスの水を捨てないでは、新しい水を注ぐことはできません。こう
いう訳で、心の貧しいことは、心の豊かさに勝って、神の前に高価で尊いのです。
 また、イエスさまはご自分のことを「罪人の主」であると言われました。その通り、いち早くイエスさまの元にやって来たのは遊女や取税人です。彼
らは、社会的には罪人というレッテルを張られた者たちです。しかし、幸いなことに、彼らは自分たちは罪人であるということを自覚していました。彼
らは心の貧しい者でした。ですからイエスさまがどのようなお方か、誰よりも早く知るに至ったのです。
 イエスさまもまた、天の御国はあなた方のものだ、と語ってくださいました。私たちは皆、罪人です。罪過の中に死んでいる私たちを贖(あがな)う
ためにキリストイエスは世に来られました。さばくためでなく、赦すためにイエスさまは来られました。私たちが弱さを自覚する時、また罪人であること
を自覚する時、イエスさまの愛と赦しが私たちを包みます。このお方に帰りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年3月19日号(第928号)より転載—

2017年3月13日月曜日

富める若人
イエスさまの宣教途中、1人の青年がイエスの前に走り寄り、御前(みまえ)にひざまずいて尋ねました。
 「永遠のいのちを頂くにはどうすればよいのですか」。イエスさまは守るべき教えとして律法を挙げましたが、青年は「先生。私はそのようなことはみな、小さい時から守っております」と言いました。それを聞くとイエスさまは、彼を見つめ、いつくしんでこう言われました。
 「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについてきなさい」
 するとその青年は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。「なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである」と聖書(マルコの福音書10章)は記しています。
 人は、神さまに従う、といっても、ここまでは従いますが、これ以上は従いません、という弱さを持ちやすいものです。
 青年も、落ち度なく律法を守ってはいました。けれども、全財産を捨てるとなると、話は別でした。富を投げ打ち、身一つでキリストに従っていく道を選択することは、彼にはできないことでした。
 彼は律法を完全に守り行うことはできませんでした。そう、できないのです。お弟子たちは「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と言いました。
 イエスさまは「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」と言われました。
 全財産を捨ててまでして主に従うことは、人にはできないことです。しかし、神さまにより頼むなら神は従わせてくださいます。そして、全てをささげきった人生に、神さまは大いに報いてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年3月12日号(第927号)より転載—

2017年3月5日日曜日

信仰を学びましょう
 夜中の3時ごろのことです。イエスさまはガリラヤ湖の上を歩いて、先に舟で出発した弟子たちの元に行かれました。弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げました。
 イエスさまは、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。すると、ペテロは答えてこう言いました「主よ。もし、あなたでしたら、私に水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」
 イエスさまのことばは必ずその通りになることをペテロは知っていました。イエスさまは「来なさい」と言ってくださいました。
 そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスさまの方へ行きました。ペテロはガリラヤ湖上を歩きました。奇跡が起こったのです。
 ところが状況は一転します。ペテロは波を見て怖くなり、沈みかけました。「主よ。助けてください」と叫ぶと、イエスさまはすぐに手を伸ばしてつかんでくださり、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」とおっしゃいました。
 これらは皆、マタイの福音書14章からの引用です。この箇所から私たちは、信仰について学ぶことができます。イエスさまを見ている限り、ペテロは湖の上にあっても歩くことができました。イエスさまとは神のことばです。神のことばを見続けるなら、その通りになります。しかし、みことばから目を離してしまうなら、ペテロが溺れたように、私たちも現実に溺れ、何の奇跡も見ないでしょう。
 イエスさまは、「なぜ疑うのか」と言われました。信仰はあるかないかどちらかです。大切なのはこの一言です。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(へブル人への手紙122節)
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月5日号(第926号)より転載—

2017年2月26日日曜日

武器を取りましょう
 先日、ギデオンが、戦いで、戦士300名で13万5000人のミデアン人に打ち勝ったという話を
紹介しました。神の戦いはいつも圧倒的な勝利になります。
 少年ダビデは、大男の戦士ゴリアテに、たった一つの石で勝利しました。また、預言者エリヤはバ
アルに仕えるバアルの預言者450人に対して、たった1人で立ち向かい勝利を得ました。
 神に頼るなら大きな勝利が現されます。どんなに勝ち目のない戦いに見えても、それが神の陣
であるなら必ず勝利します。神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。こう
いう訳で、ピリピ人への手紙4章には次のような聖書のことばがあります。
 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがた
の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなた
がたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(6、7節)という一文です。
 私たちは、思い煩う生きものです。あの心配に、この試練、この戦いと、問題を前に、私たちの
心は千々に乱れます。しかし、神さまは私たちの全てをご存じであり、感謝の祈りによって、私たち
の心と思いを知り、また、解決を与えてくださいます。
 ローマ人への手紙8章26節には、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と書かれていま
す。神さまは、あなたにある問題をあなた以上にご存じです。そしてあなたの戦いを戦ってくださる
お方です。
 主に信頼しましょう。そして神さまが与えてくださった感謝という武器を用いましょう。主は必ず勝
利を現してくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年2月26日号(第925号)より転載—

2017年2月22日水曜日

御声に聞き従う

 1989年8月、フィリピン・ダバオで、刑務所の囚人たちが待遇改善のため人質を取った結果、銃撃戦となる事件が起こりました。日本人が刑務所に来ると聞き拉致を周到に用意した計画でしたが、日本人は来ず代わりにオーストラリア人宣教師であるジャッキー(ジャクリーン)・ハミルと現地の教会のメンバーが赴きました。ジャッキーと教会のメンバー合わせて5人が殉教し、事件は世界的なニュースとなりました。
 このチームは不思議な事が重なりました。旅行社が飛行機のチケットを間違え、またすぐに変更できるだろうと思われたのに、どうしても席が取れないのです。宣教はみこころなのになぜ?と思いました。
 何日間かの祈りの後、ついにチームリーダーはこのままで行く、これが導きだ、と判断されました。旅行社が間違えたスケジュールのままで行くことが導きだと、神の御声を聞いたのです。
 この後、チケットが変更できるという連絡が入りました。しかし、お断りして最初の予定のままで行きました。それによって奉仕の予定は変更となり、結果的に刑務所の奉仕には行けませんでした。これは、日本チームへの守りの手でした。詳しくは、パウロ秋元著『ダバオ刑務所事件の真相』(み声新聞社)をお読みください。
 本当によく神の御声を聞けたと思います。もし聞き間違えたなら、私たちの命に危険があったでしょう。結婚したばかりの私は9カ月で夫を亡くすところでした。私たちはすれすれのところで守られました。確かにこのような聞き従いは、一朝一夕にできるものではありません。しかし、神さまは私たちの耳を成長させてくださいます。御声に聞き従うことは確かな道です。共に学びましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年2月19日号(第924号)より転載—

2017年2月12日日曜日

 
 今年もまた、長崎の西坂で日本二十六聖人殉教記念聖会が持たれます。
 約400年前、この西坂で、外国人6名、子ども3名を含む26名が信仰を全うし、十字架にかけられ、殉教の死

を遂げました。彼らは日本で最初の殉教者です。
 その西坂は、今は公園になっています。他にも殉教の記念館があり、前面には二十六聖人のレリーフがあります。

そして、その土台の所には次のような聖書のことばが刻まれています。
 「人若し我に従はんと欲せば、己を捨て十字架をとりて我に従ふべし(だれでもわたしについて来たいと思うなら、

自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい)」(マルコの福音書8章34節)。二十六聖人は

このみことばを体現していったのです。
 今でこそ、公に信仰を持つことが許されていますが、イエスさまを信じるなら殺されるという時代がこの日本にも確か

にありました。
 日本人といえばおっとりした善良な人たちという印象を持つ方が多いようです。しかし、日本人が日本人に対して

なした迫害の一つ一つは、非常に残酷なものでした。生かさず殺さずの取り扱いで、見せしめとはいえ人間がこんな

残虐な事を考えつくのかと疑うようなひどい仕打ちが老若男女問わず次々に実行されました。
 しかし、迫害の中で流された殉教者の血は、リバイバル(聖霊による信仰復興刷新)の種だと言われています。主

はその血に報われます。こういう訳で私たちはリバイバルを待ち望んできました。そして、その時が来ました。
 殉教者たちは、この世の命ではなく、永遠のいのちを見つめて天に凱旋していきました。彼らから学ぶ事は多いの

ではないでしょうか。(イスラエル北野)

み声新聞2017年2月12日号(第923号)より転載—

2017年2月7日火曜日

300名
300名。これが意味するところをご存じでしょうか。
 士師記に、ギデオンという神の器が登場します(7章参照)。当時、イスラエル人は主の目の前に悪を行っており、それ故、主は7年間彼らをミデアン人の手に渡しました。
 しかし、神さまはイスラエル人を愛しておられ、ギデオンの手でイスラエルを救おうとされました。
 ミデアン人の兵士の数は13万5000人でした。対するイスラエルは3万2
000人です。勝ち目のない戦いになるのは目に見えています。ところが神さまは、これでもまだ民が多すぎると言われたのです。「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って私に向かって誇るといけないから」というのがその理由でした。
 それで、神さまが、恐れおののく者は皆、家に帰りなさい、と告げたところ、1万人が残りました。しかし、それでもなお神さまは多すぎるとおっしゃいます。神さまはギデオンを通して彼らを水の所に連れて行きました。そこで、舌で水をなめたり、膝をついて飲む者をより分け、口に手を当てて飲んだ者300名だけを引き留め、戦士としました。
 ミデアン人との戦いは、この300名で行われました。300名は、角笛を鳴らし、つぼを打ち砕き、たいまつを握り、「主の剣、ギデオンの剣だ」と声を上げました。神さまはミデアン人を同士打ちにされ、イスラエルは勝利しました。300名が13万5000人に打ち勝ったのです。
 問題を前に、あなたの持っているものもさながらこの300名かも知れません。とても足りない、と思うでしょう。しかし、主が働かれると、そこに奇跡が起こります。神さまへの信頼を堅くしましょう。 (イスラエル北野)
み声新聞2017年2月5日号(第922号)より転載—

2017年1月29日日曜日


 幼い頃、鏡の前に立って遊ぶのが大好きでした。それを知っている父母はそっと近づき、鏡の前にいる私に向かっ
て繰り返し語るのです。「自分の顔に自信を持てるように生きなさいね。二十歳までは、お父さんお母さんが責任を
持ってあげるけど、二十歳を過ぎたら自分の顔は自分で責任を持ちなさい。心にあるものが顔に出てくるのよ」と言う
のです。
 思う節がありました。マタイの福音書6章22節には、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら
、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」と書かれています。『獄中からの賛
美』の著者であるマーリン・キャロザース氏はまさにその人でした。お交わりをさせていただきましたが、神さまが下さる
大いなる喜びを頂いて、目ばかりか全身光を放っています。一点の曇りもありません。
 モーセもまたこの事で神さまの栄光を現しました。彼は主に呼ばれ、シナイ山に登りました。主と語り終え、下山す
る時、彼の顔は主の栄光を写し、肌は強く光を放っていたことが聖書に書かれています。
 他にも、殉教者ステパノは殉教の直前に、その顔は御使いの顔のように見えた、と聖書は記しています。主と交わ
れば一つ霊となり、神さまの栄光を反映させ、世にあって強く輝きます。
 こういう訳で私たちは、主が下さる喜びの中を生きることができるよう、神さまに求めましょう。主を喜ぶことは力であ
り、その喜びは幾倍にも増え広がります。そして、あなたの喜びや、輝きを見た多くの人が、あなたを通して神さまを
見、神さまに立ち返っていくようになります。何と素晴らしいお計らいでしょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年1月29日号(第921号)より転載—
愛を学ぶ所
教会はどういう所でしょう。素朴にそう思う人は多いでしょう。私の意見では、教会は「愛を学ぶ」
所です。そしてそれは「神を学ぶ」所につながっていきます。
世には多くの形の愛があり、神々とよばれる神もたくさんあります。その中から、ただ一つの真実、
あるいは本物の愛と出会うために、人の人生はあるのではないかと思います。
カルバリ山の十字架で、私は愛を知りました。約2000年前にイエス・キリストは世に来られ、
ご自分が預言者たちによって語られていた約束の救い主であることを証しし、お弟子たちを教え
育てながら、時至ってカルバリで十字架にかかって死なれました。
イエスさまは、神の御子であるにもかかわらず、その在り方を捨て、私たちと同じように肉を持ち、
肉において私たちの罪を担い、しかも最も厳しい十字架によって死に、私たち人類のために贖いを
完成させてくださいました。イエスさまが約束の救い主であることのしるしは、イエスさまが自ら予告
していたように3日目に復活を遂げられたことにあります。
イエスさまを世に送られた父なる神は、全能者であられ、誰も近づくことのできない光の中に住んでおられ、光そのものです。また、その姿を直接見た者はいません。世にいう神々など足元にも及びません。
神は愛です。イエスさまは神さまなので、その愛もまた完全です。このお方と出会い、このお方を
知ることによって、私たちはまことの愛を知り、愛を学んでいくのです。私たち人の愛は不完全ですが、イエスさまの愛は完全です。完全な愛を持つ方を通してでしか、本当の愛は学べません。
どうぞ、教会に行き、まことの愛と出会ってください。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年1月22日号(第920号)より転載—

2017年1月15日日曜日

金銀より確かなもの
 私たちの人生は、よく四季に例えられます。かつて思春期があったように、老いて今は思秋期を迎えています。社
会の表舞台から少しずつ身を退け、後進に席を譲ることが求められてくる年齢です。
 五十の声を聞いて、私も、自分が死んだ後、子に何を残してやれるだろうかということを折節に考えるようになりま
した。未信者のKさんは、未婚のお嬢さんが一人で生きていけるよう、退職金に手を付けず残すことを決めました。
自分にはこれぐらいしかできないのだと力なく語った様子が印象的でした。
 一見、お金は万能です。金銭はあらゆる必要に応じます。ですから退職金を残したKさんはできる全ての事を行
いました。しかし、何とも救いがないのです。お金があるからといっても、一事が万事、全てが守られるとは限りません
。より確かなものは別にあるのです。
 ところで、使徒の働き3章に興味深い記述があります。生まれつき足のきかない男が、施しを求めて宮の門に運ば
れてきました。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て施しを求めたところ、ペテロは「金銀は私にはない。し
かし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」。そう言って右手を取って立たせま
した。たちまち足とくるぶしが強くなり、男は歩いたりはねたりしながら、神を賛美し、宮の門に入って行きました。
 どんなにお金があっても、決して手に入れることのできないものを、この男は手にしました。金銀より確かなものは、
キリストであり、その御名です。子に残してやれるもの、それは、神さまご自身です。生きて働かれる神さまこそ、あな
たへの答えとなります。
 
(イスラエル北野)
み声新聞2017年1月15日号(第919号)より転載—


2017年1月13日金曜日

弱さを誇る
ペテロとパウロは、初代教会時代の建て上げに当たって双璧をなすキリスト・イエスの働き人でした。ペテロが無学な漁師であったのに対し、パウロは最高学府であるガマリエル門下に属するエリート中のエリートでした。
 初め、パウロはキリスト者を迫害しました。パウロはそうすることが神の御心だと確信していました。ところがダマスコヘ向かう途中、彼はキリストのことばを聞き、自分の誤りを知らされます。
 この体験以降、パウロは180度変わりました。パウロは「わたしはキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ人への手紙3章8節)と告白するに至りました。
 さらに、パウロは、「わたし自身については、自分の弱さ以外には誇りません」(コリント人への手紙第二12章5節)とも告白しました。主もまた、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(9節)と語ってくださいました。
 私は18歳の時に救われ、この宗教のあまりの素晴らしさに献身しました。意気込みは強く、福音のためなら何でもするつもりでした。ところが、私にあてがわれた道は予期せぬ病でした。入院し、進むことも退くこともできず、弱さを味わいました。しかし、これが神の御旨だったのです。私の強い所ではなく、私の弱さこそが神さまの目にかなっているのだと知るに至りました。
 こういうわけで、今はパウロ同様、「むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(同節)と言い得るのです。弱さはキリスト・イエスにあって強さに変えられます。これこそ、神さまの栄光の現れです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年1月8日号(第918号)より転載—

2017年1月2日月曜日

神への恐れ
 箴言9章10節に、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と書かれています。
 聖書には「主を恐れる」ということが繰り返して書かれています。主を恐れるとは一体どういうことでしょう。
 私が主を恐れることを学んだのは救われてすぐの頃でした。ある牧師が、神さまに祈り求めるということを教えてくださったので、私は、教会に通うための自転車を求めることにしました。あなたが生ける神であることを知りたいのです、自転車をください、そう祈りました。
 さらに、神が答えてくださったということが分かるように、具体的に条件を挙げて祈りました。ブランド物、鍵は二つ、黒いメッシュの籠、変速ギアがあることなどです。
 ところが、私はこの事で不信の罪を犯したのです。一方で神に求めていながら、私は人間的な手段に訴えました。友人から自転車をもらうよう約束を取り付けたのです。その自転車はリクエストを満たしていなかったですが、自転車には変わりありません。自転車が与えられた、と教会で語るつもりでした。
 しかし数日後、1本の電話が鳴りました。もらうはずの自転車が盗難に遭ったというのです。友人のごめんね、の声を遠くで聞きながら、これは、主の御手だと思いました。そして、強い恐れがやってきて、私は自分の二心を悔い改めました。
 その後、引っ越しすることを伝えに保証人さんと連絡を取ると、まさかの一言、向こうから自転車は要らないか、と語られたのです。見る前からそれがリクエスト通りの自転車であると確信しました。そしてその通りでした。神さまはご栄光を現されました。
 神を恐れることは奇跡の土台です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年1月1日号(第917号)より転載—