2016年9月5日月曜日

しつこさ

 親愛なるA牧師は、よく説教でこのようなことを言います。「皆さん、人間関係においてしつこいことは嫌われます。しかし、神との関係ではしつこいことが神の手を動かしますよ」というのです。
 まさしく自分に語られていると思いました。常日ごろ、私は、自分の手に負えない事があると、教えてくれる人を探して粘ります。相手が根負けして、作業の手を止めて教えてくれるまで粘るところがあり、家族には不評です。他方、神さまとの関係においてはなぜかそんな粘りが出てきません。求める前にあっさりと引き下がってしまいます。これでは、神の御手を見ることができません。
 ルカの福音書11章でイエスさまは、興味深いたとえをお話になりました。
 友人が旅の道中、自分の家へ寄ったのですが、出してやるものがなくて、真夜中でしたが友だちにパン3個を貸してくれと頼みました。ところがその友だちは、家の中からこう答えます。「面倒をかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない」。
 イエスさまは、「彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」(58節)と語られました。さらに、18章にも同様の記述があります。
 この事例から学ぶことは、信仰は、しつこく求め続ける事だということです。神さまの御心を無視することではありませんが、確かに、しつこく求めることを神さまは語っておられます。そして求める者は受けるのです。共にその信仰に立ち、神さまに求めていきましょう。  (イスラエル北野)

み声新聞2016年9月4日号(第900号)より転載—

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