2016年4月12日火曜日

「不幸」に思う
 ソロモンの箴言に「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる」(1517節)と書かれています。
 小学生のころ、牧師さんの息子がいました。彼はハンバーグが嫌いだと言っていました。肉を節約し、つなぎのパン粉を大量に入れるので、パンを食べている味しかしなかったからです。彼は「パンバーグ」と呼んでいました。
 私はといえば、幼少のころからあれこれ珍しい物を食べさせてもらい、本当に父には感謝しています。でも、当時は牧師一家が囲むパンバーグに憧れました。そこには何か、特別な祝福があるように感じました。
 皆さんは、今不幸ですか。それとも幸いですか。不幸にはそれなりの理由があります。金銭もまた、その一つです。お金さえあればできたのに、お金が無いばかりにできなかった、と悔しさをにじませる場面は人生に少なくありません。
 また、病気が不幸だと考える人も多いです。世の中には不治の病があります。これもまたつらいものです。そして、孤独です。楽しさやつらさを分かち合える人を持たないこともまた不幸でしょう。
 でも、お金の無いことや、不治の病であること、孤独であることは、必ずしも不幸とは言えません。神さまは愛なるお方だから、どんなつらいことがあっても耐え切れないような試練は置かれません。必ず解決を用意し、脱出の道を備えてくださっています。
 では、本当の不幸とは何でしょう。それは、「神を知らないこと」です。神を知っているなら、共に歩んでくださる方をご存じなら、どのような状況にあろうと、そこに愛があり、いやしがあり、安らぎがあり、解決があります。イエスさまを信じて、勝利を受けましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年4月10日号(第879号)より転載—

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