2016年2月6日土曜日

ふたごころ
 以前、このコーナーでお話したことがありますが、私は、救われて後、自分が教会に行くための自転車を、神さまに求めたことがあります。
 具体的に祈れば良いとアドバイスされて、10項目ほど課題を挙げて祈りました。ブランド物がいい、鍵は2個、マウンテンバイクのような小型の自転車、変速ギア付きのもの、などです。
 ところが、私は二心であって、神さまに祈ったにもかかわらず、人間的な手段を取りました。自転車をくれそうな友人を捜し、もらおうとしたのです。友人のその自転車はママチャリで、祈った物とは違いますが、自転車であることに変わりありません。教会には、祈った通りではないけど自転車が来ました、と報告するつもりでした。
 ところが数日後、その友人から電話が来ました。約束した自転車が盗難にあった、というのです。それを聞いた瞬間、私は、神の御手だ、と思いました。神に寄り頼むと言いながら人の手を用いたことへの神の懲らしめでした。恐れつつ、熱心に二心を悔い改め、もう一度信仰に立ちました。すると、何と「自転車はいらないか」と言ってくださる方が現れました。しかも、その自転車は、祈りのリクエスト全てを満たす奇跡の自転車でした。神をあがめ、また恐れました。
 ヘブル人への手紙11章6節には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」と書かれています。
 今日生まれた者も長年のクリスチャンも神さまの前では同じです。神さまは、真実をもって御自身により頼み祈る者の信仰に答えてくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年2月7日号(第870号)より転載—

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