2016年1月3日日曜日

赦しの特権
 最近、夫が「赦しの特権」ということをよく語ります。赦しはキリスト教の根幹を成す教えです。「主の祈り」の中でも毎回「われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈ります。赦しにおいては、まずこちらから赦すというのが主のあり方です。
 ヨハネの福音書20章にも「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(23節)と書かれており、赦すことも赦されることも、私たちの一存に任されています。
 赦すことを実行するのは、難しいです。人は、罪を赦す権威や力は持っていません。赦しは神のものです。しかしながら神はそれを私たちに委ねてくださいました。神は、互いに赦し合うことによって、全ての人にこの恵みが届くようにしてくださいました。
 とはいえ、赦しの前にあったものは痛みです。赦したくてもできない心の理由があります。この縛りから救ってくださるのがイエスさまです。
 オランダの伝道者であるコーリー・テン・ブームは、第2次世界大戦中に収容所に入れられ、多くの苦しみを受けました。戦後、和解を説いていた聖会に、かつての鬼軍曹が和解を求め手を差し出してきました。その時、彼女はいてつきました。どうしても手を取れなかったと言います。コーリーは、イエスさまを仰ぎました。
 その時、まるでダムが決壊したかのような豊かな愛が一気に彼女に注がれました。空気が一変し、キリストの愛があふれました。コーリーは赦すばかりかキリストの愛に打たれました。こういう訳で、私たちもまた赦しの道を行きましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年1月3日号(第865号)より転載—

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