2015年10月26日月曜日

まことのいのち
 人生で、最も大事な事は、やがて私たちは等しく死ぬのだということを知っていることです。ソロモンも、「伝道者の書」で「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」(72節)と書きました。
  30年以上前のことですが、洗礼を受けられた社会人の男性が、興味深い証しをしておられました。男性が受洗に導かれたのは、ある聖書のことばが心に触れたからだといいます。それはマタイの福音書1626節で、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」というものでした。
 たとえ全世界を得ても、人は自分の生き死にすら自由にすることができません。神さまにとっていとも小さな事でさえ自分には思い通りにならない、それを知った時、彼は主イエスさまに出会いました。
 どんなに成功しても、よしんば全世界を手に入れたとしても、まことのいのちを損じたなら、全ては終わりです。その代価として、差し出せるようなものは私たちにはありません。
 イエスさまは、私たちのいのちを永遠に買い戻すために、定められた時に世に来られ、十字架にかかって死んでくださいました。こうして主は、私たちの贖いを完成されました。このイエスキリストを主として、心に信じ、口で告白するなら、あなたは救われます。キリストにある者となり、永遠のいのちにあずかることができるのです。それ故、あなたもまた、イエス・キリストを信じましょう。イエスさまは、私たちの希望です。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年10月25日号(第855号)より転載—

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