2015年5月23日土曜日

 
 私の子守をしてくださったHさんは、盆栽を趣味としておられました。枝を切ったり、針金で矯正したり、思い思いの形に仕上げていくのです。
 そのことを思うたびにほうふつとさせられる聖書のことばがあります。ヨハネの福音書15章には、このように書かれています。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(1、2節)
 ぶどうの木とはイエスさまのことであり、枝とは私たちのことです。そし
て、刈り込む農夫とは父なる神さまで す。神さまはより多く実を結ぶために、私たちを、剪定されるというのです。
 皆さんは、何の心当たりもないのになぜこんな試練がくるのか、と思ったことはありませんか。ヨブ記のヨブも そうでした。しかし、それこそ、刈り込みなのです。神さまは皆さんを益にあずからせようとあえて試練を許されるのです。ですから、急な試みが起こったとしても動揺せずに、忍耐を培う良い機会としましょう。
 詩篇105篇には、「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」(19節)という一文があります。これは、ヨセフのことを言っています。ヨセフもまた刈り込みを受けました。高い地位に就く示しとは逆に、冤罪に次ぐ冤罪で牢につながれていました。しかし、ついにヨセフの時が満ち、ヨセフはパロに次ぐ大臣になりました。
 神さまは私たちをご存じで、私たち一人一人に計画をお持ちです。全ての困難・苦難は避けたいものですが、後には確かな実を結ばせます。全ての事を感謝しましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年5月24日号(第833号)より転載—

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