2014年8月29日金曜日

永遠への招待
 まだ、イエスさまも父なる神さまも知らなかった頃、私は自分を憎み、自殺を
考えたことがあります。しかし、ある時から止めました。
 というのは、たとえ今の私が死んだとしても、私は消えるわけでなく、死んだ
先でも私は私として続いているような気がして、自分はどうやっても 「無」に
はならないんじゃないか、こんな考えを持つようになったからです。
 聖書に照らし合わせて見ても、これはある程度当たっています。私たちは死ん
でも、失われるのは肉の体だけで、霊、魂は無くなることはありませ ん。私た
ちは神の前に存在し続けるのです。
 ある時、私は夢で黄泉らしき所にいたことがあります。それが本物かどうかは
分かりませんが、黄泉は全体が薄暗い所で、力の無い所でした。そこに すむ人
々は、死者ですが、弱々しくて命が感じられません。生の躍動がなく、望みも喜
びも無い所でした。イエスの福音を信じない死者は、最後の大審 判の時までそ
こに置かれます。
 しかし、クリスチャンは死ぬとたちまちにしてパラダイスに移されます。天国
です。そこには命が満ち、力があり喜びがあり、いのちの川から心ゆく まで生
ける水を飲むことができます。そして、神さまは、御霊の体と言われている朽ち
ぬ新たな体をくださいます。こうして私たちは神さまとともに永 遠という時間
を共にするのです。
 コリント人への手紙第二15章では「死は勝利にのまれた」と書かれています。
イエスさまが死からよみがえられ勝利を得たので、イエスにつく私た ちは新し
い御霊の体を受け、復活を果たします。こういうわけで、もはや死を恐れること
はありません。イエス・キリストを信じ、御国にあずかる者と なりましょう。
  (イスラエル北野)

み声新聞2014年8月31日号(第795号)より転載—

2014年8月20日水曜日

間に合っています
イエスさまの宣教の道中、一人の青年が御前にひざまずいて尋ねました。「尊い先生。永遠のいのちを受けるには何をしたらよいでしょうか」
 イエスさまは、「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。(中略)欺き取ってはならない。父や母を敬え』」(マルコの福音書10章参照)とおっしゃいました。
 するとその人は「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」と言いました。
 イエスさまは彼を見つめ、いつくしんで言われました。「あなたには、欠けたところが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」
 すると彼は、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。彼は多くの財産を持っていたからです。イエスさまは「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」と語られました。
 裕福といえば、私の母のまわりにも裕福な人がたくさんいます。長年、母を見ているので彼らはイエス・キリストの福音を真理だと知っています。ただ、持ち物をささげ献身している母を見ると、自分も同じようにのめりこみそうで怖いのだ、と言いました。
 一言で言うと、「間に合っています」これが彼らの偽らざるところのようです。イエスさまが入ろうとしてもその心は既に世の楽しみでいっぱいで、あえて神さまを求める余地はありません。これは幸いなことなのか不幸なのか、あなたならどう読みますか。永遠のいのちに至らせる神の恵みに心を開きましょう。     (イスラエル北野)

み声新聞2014年8月24日号(第794号)より転載—

2014年8月16日土曜日

栄光の現れ
 ヨハネの福音書11章4節には次のようなことばがあります。「この病気は死で
終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそ れによっ
て栄光を受けるためです」
 30年も昔のことになりますが、父がゴルフ場で吐血し、食道静脈瘤破裂で死線
をさまよいました。妹と私は、韓国に断食祈祷に行きました。「父は いやされ
る」という確信を受け日本に帰ってきたのは手術の3日前でした。必ず治ってい
るからイエスさまを信じて、と私たちは哀願しました。父は身 代わりの十字架
を信じ、手術に向かいました。
 手術中、父は、白い鶴のような、雲に乗って、自分の体を見おろしていたそう
です。また天国に行き天国の通信システムを見せられ、「祈りはこの ルートで
届くようになっており、緊急の際にはこちらのルートで届きます、質問はありま
すか」とイエスさまに聞かれ、それはそれは見事な、世では見 たことのない通
信システムだったと述懐しました。酒井さん、という声でわれにかえり、口から
体に入ったといいます。
 その後、集中治療室(ICU)で痛みを訴える父の様子が、私たちには赤子の
産声のように聞こえました。肝硬変だということでしたが、「まだ柔ら かい、
大丈夫だ」とドクターに言われた時、私たちは主に感謝しました。いやされてい
たのです。この手術をしてもほとんど5年以内には亡くなるそう ですが、父は
十数年のよわいを頂き、神さまはおことば通りご栄光を現してくださいました。
 神さまにおできにならないことは一つもありません。今も、神さまは現実に生
きておられます。あなたもイエスさまを信じ、神さまの奇跡を信じま しょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2014年8月17日号(第793号)より転載—

2014年8月6日水曜日

低い心
 ルカの福音書18章にあるお話です。
 ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは
収税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。 「神
よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことに
この収税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食 し、自分の
受けるものはみな、その十分の一をささげております」
 なかなか立派なものです。このような人こそ神さまに認められるものだ、と私
たちは思います。しかし、イエスさまはパリサイ人を退け、収税人をお 心にか
なうものとされました。
 収税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、一言こう祈りまし
た。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」イエスさまは「こ の人
が、義と認められて家に帰りました、パリサイ人ではありません。誰でも自分を
高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされるからで す」そう、語
られました。
 パリサイ人も、主に対して熱心ではありましたが、それは自分を人よりも正し
いとするためでした。人の前で自分を正しいとする者は、神さまから退 けられ
ます。神さまの前では、人は皆罪人だからです。ですから、神さまは、自分を罪
人と認め、憐れみを請う低い心を持つ者を正しいとされました。
 神さまが正しいとするのは、へりくだった低い心です。それ故「へりくだる者
に恵みをお授けになる」(ヤコブ4章6節)と書かれています。
 水は必ず低いところに向かって流れて行きます。それは決して上へと流れるこ
とはありません。同様に神さまの祝福もまた、低い心のうちに届くので す。
  (イスラエル北野)

み声新聞2014年8月10日号(第792号)より転載—