2013年11月25日月曜日


感謝の力
 今月11日、すべてのことを感謝することを私たちに教えてくださった、マーリ
ン・キャロザーズ氏が天に帰られました。マーリン氏との交わりを与 えてくだ
さった神さまに感謝したいと思います。
 感謝の教えは、初めは右から入って左に抜けるような、軽い教えに聞こえまし
たが、後に、すべてのことを次々と逆転させる、神さまの大きな力であ ると知
りました。テサロニケ人の手紙第一5章1618節にも「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」と 書かれています。
 20年ほど前のことです。牧師である夫が、ある方に招かれました。その方は事
情があって自己破産をされましたが、法的には決着しているにもかか わらず、
なお、取り立て屋がやって来て困っておられました。
 どうしようかと祈ったところ、神さまはか細い声で「すべてのことを感謝しな
さい」と語られました。そこで皆で賛美を歌い、心を主に向けて、この 状況が
許されたことを感謝しました。これは神の最善以外の何ものでもないと告白し、
喜び、徹底的に感謝しました。そして帰路に着いたのです。
 奇跡は起こりました。夫がまだ家に着かないうちから、一本の電話を受けまし
た。その方でした。何と夫が帰った後、取り立て屋がやって来ましたが 「もう
あきらめた。もう来ない」と語って帰っていったそうです。そして二度と来るこ
とはありませんでした。
 感謝することによって、私たちはしばしば奇跡のみわざを見ます。神の手が動
くのです。それが感謝の力です。すべてが最善へ変わります。あなた も、感謝
を学び、神の栄光の現れを見ていきましょう。 (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年12月1日号(第756号)より転載—

2013年11月21日木曜日


自分の敵を愛しなさい
 私が幼少の頃、よく皆でキリスト教をからかいました。「アーメン、ソーメ
ン、冷やソーメン!」
 ところが少し大きくなってから、かつてのガキ大将が教理に関係するようなこ
とを言いはじめました。「右の頬を打つような者には左の頬も差し出せ という
が、おまえ、出来るんか」私は、まだ子どもでしたが、そう言われて心を探られ
ました。キリストの教えは私たちのスケールを超えて、大きいの です。
 例えば、マタイによる福音書5章ではこう書かれています。「わたしはあなた
がたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。そ れでこ
そ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(中略)自分を愛し
てくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょ う。取税人で
も、同じことをしているではありませんか」
 初めてこれを読んだ時、私は目からうろこが落ちました。自分を愛してくれる
人を愛することは確かにたやすいことです。愛してくれる人を愛したか らと
いっても、それは、なんら誇れるものではありません。
 それに引き換え、主が推奨してくださる愛は、「汝の敵を愛せよ」これに尽き
るといっても過言ではありません。自分の敵を愛し、のろいに代えて祝 福を与
える、これが神さまの愛です。そのご愛は、善人にも罪人にも等しく注がれてい
ます。ですからあなたも神の愛を学びましょう。その愛は、自分 の敵をも愛
し、相手を祝福するものです。神さまはその力も与えてくださいます。
 あなたの敵をあなた自身のように愛しましょう。そうすることによって人は神
の愛を知るのです。
(イスラエル北野)

 
み声新聞2013年11月24日号(第755号)より転載—

2013年11月16日土曜日



 かつて、病院に入院していた時の話ですが、一人の看護師さんが、なかば泣き
ながら私の手を取り、「ごめんね。北野さんは心がきれいなのに私は… ごめん
ね」と絶句しました。何があったか知りませんが、私も、心は決してきれいでは
ありません。ねたみや高ぶり、不信仰、また人を裁く思いを抱き やすい一人の
罪人です。そして、そこから聖められることを熱心に求めている身です。
 心は何よりも大切なもので人の価値を決めるものだと思います。神さまは私た
ちの心の値打ちをはかられるお方です。第一サムエル記16章におい て、神さま
はサムエルに、サウルに代わる王をエッサイの子に見いだしたから油を注ぎに行
きなさいと語られました。長男エリアブを見た時、確かに王 たるにふさわしい
とサムエルは思いましたが、主は「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わた
しは彼を退けている。(中略)人はうわべを見るが、 主は心を見る」と語られ
ました。神の心にかなう王は、兄たちではなく、末っ子のダビデであったのです。
 第二歴代誌16章にはこのように書かれています。「主はその御目をもって、あ
まねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に 御力をあ
らわしてくださるのです」(8節)というものです。
 主の目にかなう器を主は探しておられます。神の心をわが心とし、神の思いを
わが思いとするもの者を神は選ばれます。
 主の心と一つとなる時、神さまは大いなる奇跡、栄光を現されます。それは私
たちにとって最高の喜びです。それゆえ聖霊さまに助けられ神の心をわ が心と
し、神の思いをわが思いとし、熱心に主を求めて参りましょう。
(イスラエル北野)

 
み声新聞2013年11月17日号(第754号)より転載—

2013年11月5日火曜日


いやされた男
 聖書には、多くのいやしの記述がありますが、使徒の働き2章の「美しの門」
にいた、足のきかない男のいやしは、特に感動的です。
 男はペテロとヨハネが近づくのを見て、施しを求めました。ペテロは男を見つ
め「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイ エスキ
リストの名によって、歩きなさい」こう語って男の右手を取って立たせたとこ
ろ、たちまち、男の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっ すぐに立
ち、神さまを賛美しつつ宮に入っていきました。
 人々はこれに驚き、一斉に彼らのところにやって来ました。そこでペテロは神
さまに栄光を帰し、これはイエス・キリストの御名によって現された神 の御業
であると語りました。
 先日、ある方のお見舞いに行きました。体の自由がきかず、見るからにつらそ
うでした。マルコの福音書1518節に「病人に手を置けば病人はい やされま
す」という神さまの約束があるので、私たちはその言葉通りに手を置いて祈りま
した。主は力強く臨んでくださいました。
 祈り終えたところ、その方が不思議そうに右手を握ったり放したりしておられ
ました。なんとマヒしていた右手に力が入るようになったというので す。お顔
の表情も打って変わってなんだか生き生きしてきました。
 主が働いてくださったのです。主は生ける神です。聖書のことばを信じ行うな
ら、今でもいやしや奇跡は起こります。キリストは信じる者を通して今 でもご
栄光をあらわしてくださいます。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつ
までも、同じです。イエス・キリストを信じましょう。
   (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年11月10日号(第753号)より転載—

2013年11月2日土曜日


あきらめてはいけない
私の住んでる北海道は、「試される大地」というスローガンを掲げています。
「試される」というのは本当だなと思います。
 ヤコブの手紙一章に、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それを
この上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるという こと
を、あなた方は知っているからです」(2節)と書かれています。
 信仰は必ず試されます。そういったものなのです。私は、召しを持った多くの
器が試され、時を待てずに去ってゆくのを見てきました。イスラエルの 宣教師
として召された姉妹がおられましたが、待ちきれずに教会を出て行きました。賛
美の賜物を与えられていた兄弟は、あと少し忍耐して待っていた なら賛美隊と
しての召しを見ることができたはずです。
 あと少し、というところで私たちは試されます。過ぎ去ってみればあと少しで
しょうが、当の本人にとってみれば、先は見えず、どこまで待たされる のか、
また本当に自分は召されているのだろうか、と信仰と疑いが絶えず戦っていま
す。これが信仰の試しなのです。もしあなたが、私の忍耐ももうこ こまで、と
いう事態に陥っているなら、その時こそ、出口は目の前かもしれません。
 ヘブル人への手紙には「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりませ
ん。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこ ころを
行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(1035節)と書
かれています。
 あきらめてはなりません。時が来、試しを抜けたら、私たちの信仰は確かな実
を結びます。忍耐を働かせ、試練をこの上ない喜びとしていきましょ う。
  (イスラエル北野)

 
み声新聞2013年11月3日号(第752号)より転載—