2013年10月3日木曜日


死を前にして
私の父は、55歳という若さで天に召されました。召される直前、父は渾身の力を
振り絞って絶筆を残しました。文字は乱れ流れていて、何を書いたか 私たちに
は読み取れませんでした。
 ところがある時、同室の方が母に「酒井さんは必ず『有難う』と書いているは
ずだからもう一度見てくれ」とおっしゃったので、見てみると、そこに は大き
な文字で確かに、「有難う」と読めました。
 死を前にすると、人は生きている私たちには分からないような体験をするよう
です。私たちが祈りに行くと、初めはかたくなであっても、いよいよ召 される
という時になると、多くの人がうってかわって福音に心を聞き、イエスさまを受
け入れ、救われていくのを見てきました。
 分かります。これから逝こうとしている所に関して案内人が必要なのです。案
内人はイエスさまです。私たちの身代わりとなって十字架で死に3日目 によみが
えり永遠の命を与えてくださった、このイエスさま以外に救いはありません。長
年、偶像に帰依していたからといってその偶像が死からあなた を救ってくれる
でしょうか。
 誰だって死ぬことは怖いです。しかし詩篇23篇4節でダビデは「たとい、死の
陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが 私ととも
におられますから」と歌いました。ここには神へのまったき信頼が伺い知れ、喜
びすら伝わって来ます。
 死を直前にした時、人は神と出会うように思います。どこかで天を見るので
しょう。父は「有難う」と書いて天に帰りました。天を見た喜びによって 書く
事のできた言葉だと思います。あなたもまた、イエスさまを信じ、救い主として
心にお迎えください。
  (イスラエル北野)

 み声新聞2013年10月6日号(第748号)より転載—

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