2012年10月18日木曜日

パリサイ人と取税人

 信仰生活の中で、しばしば陥りやすい過ちの一つに「自己義認」が挙げられます。自己義認は恵みから目を離させ、私たちを高ぶりのわなへと誘います。
 ルカの福音書18章に、ある例話です。二人の人が祈るために宮に上りました。
一人は当時のエリートであるパリサイ人、もう一人は人々が嫌う取税 人です。
 パリサイ人は心の中でこんな祈りをしました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のよう ではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」。自分は落ち度なく律法を守ってい る、自分自身を正しい、と誇りたいのでしょう。
 それに引き換え、取税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」。イエスさまは、神の前に義(正しい)と認められたのは、パリサイ人でなくこの取税人だと言いました。
 信仰生活の中で、私たちはしばしば「何をやったか」ということばかりを追求しがちです。それは間違いではありませんが、神さまは、私たちの心が 神の前に「どうあるか」ということに、より関心をお持ちです。自己義認は、神さまの恵みを必要としません。何でも自分の力でできる、と思っている からです。しかし、取税人は、神さまの恵みにより頼む、たましいの打ち砕かれた人物でし
た。この取税人が神さまの目にかなったのです。
 恵みの神を知らずに、どうして神を語れましょう。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年10月21日号(第698号)より転載—



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