2012年9月6日木曜日

みこころがなりますように

エルサレムの黄金門の正面に、ゲツセマネという園があります。イエスさまはたびたびそこで祈られ、十字架につけられる前夜もまた、イエスさまは、 そこで祈られました。
 イエスさまは、ご自分がまもなく全人類の罪の贖いのために死なれることを知っておられました。とはいえ、生身の体です。受ける苦しみや、愛する 弟子たちとの別離の悲しみなどによってもだえ始められ、こう祈られました。
 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、な さってください」(マタイの福音書26章39節)
 何という祈りでしょう。この杯というのは、十字架で死なれることを言っています。しかし、それにもかかわらず、主はこうも祈られています。わた しの願うようにではなく、みこころのようになさってください、というものです。こう祈ったイエスさまは、自分に死んでおられました。父なる神さま にまったき信頼を置いておられたのです。
 ルカの福音書1章にもまた、まったき信頼を持って御使いを迎えた、マリヤのことが書かれています。マリヤは、受胎告知の際にこう言いました。 「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(38節)
 イエスさまをマリヤと同列に置いてはいけないのですが、共通するのは、無私の姿勢を取り、自分の心によらず、神のみこころを求めたところです。 そし
て、その結果までも神に信頼して受け取られました。何であれ、神のみこころこそ最善であることを、私たちは知っています。私たちは、神さまの みこころがなることを切に求めましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年9月9日号(第692号)より転載—



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