2012年4月10日火曜日

それでも神は正しい

ノンクリスチャンである友人のMさんは、ヨブ記のことをよく話題にします。正しいヨブがなぜ試練を受けたのか、疑問だとMさんは言います。
神さまがいるならなぜこんなことが…という思いや出来事は、ほとんどの人が共通して持っているものと思います。クリスチャン歴30年の私ですが、いまだに、神さま、なぜ?と思ってしまうことは、多々あります。
 信仰の父、アブラハムの出会った試練も、また厳しいものでした。彼は、愛するひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげるように神さまに語られました。彼は聞き従い、イサクを縛り、ほふろうとしました。その時、神さまは「あなたの手をその子に下してはならない。あなたが神を恐れることがよくわかった」と語ってこられ、彼に対する祝福の約束を確かなものとされました。
 ヨブの試練においても、アブラハムやイサクの試練でも、それを許された神さまは正しいお方です。事実、約束通り、アブラハムから空の星、海辺の砂のように多くの子孫が出てきました。ヨブに関しては、試練の後の半生を以前にも増して祝され、聖書には、ヨブの所有物を全て2倍に増された、と書かれています。
 試練や不幸を許す神さまを理解できないという人の心も分からないわけではありません。しかし、それでも神さまを「正しい」とする時、大きな祝福の入口が見えてきます。理解できなくても、信じ信頼することはできます。試練の後には、必ず神さまの用意しておられる祝福の計画があります。
 それ故、理解できなくても、神は正しいお方として、感謝しましょう。そうすれば、神さまの祝福に漏れることは決してありません。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月15日号(第671号)より転載—



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