2012年2月12日日曜日

死を目前にして

先日、父の友人が他界しました。亡くなる前に、牧師である母がその方の所へ祈りに行きました。冷静な人ですが、母の顔を見て、泣いて、顔中涙で いっぱいになったと聞きました。もはや、しゃべることができず、何を見たか、何がつらいか、言えないまま死を迎えました。
同じように、死ぬ間際に、泣いて死んでいった人の話を知っています。元F1レーサーで冒険家の片山右京さんの友人です。彼は右京さんとともに冬 山登山に出掛けて遭難し、いざ死が臨んだ時に、ただただ泣いて、そして死を迎えたと片山さんは証言していました。
彼らは相共にどうして泣くのか、それは死に直面したからです。
私の牧師であるA牧師は、病気で心停止寸前のところまで行った人です。今まさに死ぬのか、と思った時、A牧師が向かい合ったのは「妥協なき絶 望」であったといいます。自分は神の前に果たすべきことを何も行っていない、なのに死のうとしている、それはまさに「妥協なき絶望」だったという のです。
私たち人間には等しく死が訪れます。誰もがその事を知っています。しかし、皆、死を忘れようとして世の楽しみを求めます。そしていざ、死の前に 独りで立つ時、初めて分かるのです。死に対する備えのないことを。備えとはイエス・キリストを信じることです。イザヤ書55章6節には、このように書かれています。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」。これは確かなことばです。今は、福音の語られている時代です。イエス・キリストを信じる者は天国へ行き、信じなかった者は地獄へ行きます。
あなたもイエスさまを信じ、救いを受け取りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年2月19日号(第663号)より転載—

0 件のコメント:

コメントを投稿