2017年7月8日土曜日


ふるさと
 ふるさと、という言葉に、私は甘く切ない思いを抱きます。これは私に限ったものではなく、人が等しく持つ感情のようです。昔から多くの詩人がふるさとを詠みました。
 有名なところでは、「ふるさとは 遠きにありて思ふもの…」と書いた室生犀星で、石川啄木も『一握の砂』でこう述べています。「ふるさとの山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」。
 私は18歳で上京するまで、四国の鳴門で生まれ育ちました。瀬戸内の穏やかな海と雄々しい太平洋の黒潮が混じり合う鳴門海峡の海の青さと、それを映す空の青さは、私の根っこにある原風景で、私の地上のふるさとはそこにあります。
 その上にクリスチャンである私は、もう一つのふるさとがあります。それは天国、天の故郷です。
 イエス・キリストを救い主として信じるようになった私は、自分が死んだら天に迎え入れられるのだということを知っています。
 ヨハネの福音書14章でイエスさまは、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(18節)とも、「私の父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(2節)と語られました。
 それにしても、一体ふるさとの何がこんなに懐かしいのでしょう。思うに、人の心には、真のふるさとである「天」に対する思いがもともとあって、その思いが地上のふるさとに対する思いと重なっているのではないでしょうか。
 地上での歩みは仮の人生です。終わりがあります。しかし、主イエスを信じるなら、私たちはまことの天に迎え入れられ、神とともに永遠という時間を過ごすようになります。天国こそ、私たちの永遠のふるさとです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年7月9日号(第944号)より転載—

2017年7月3日月曜日

 聖書にハンナという女性が登場します。彼女はエルカナという人の妻でした。しかし、エルカナにはもう1人の妻がいました。ぺニンナといいます。ぺニンナには子どもがいましたが、ハンナにはいません。主が彼女の胎を閉じておられたからです。でも夫エルカナはハンナを愛しており、ハンナには特別の受ける分を与えていました。
 それを知っているぺニンナはハンナを憎み、ハンナが子のことで気をもんでいるにもかかわらず、それをひどくいら立たせるように仕向けました。このため、ハンナは泣いて食事をしようともしませんでした。
 募る憂いにハンナは主の宮に行き、「主に祈って、激しく泣いた」、こう聖書は書いています(サムエル記第一1章10節)。
 そして祈りの中で、ハンナは誓願を立てました。彼女は「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め」「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」(11節)。こう祈り得たのです。彼女の顔は、「もはや以前のようではなかった」(18節)と言います。
 翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、家へ帰って行きました。主はハンナを心に留められ、ハンナはみごもり、男の子を産みました。その子こそ、イスラエルの代表的な預言者サムエルです。
 神さまはハンナを愛しておられ、この先イスラエルにとって非常に重要な人物を、ハンナの祈りを通してイスラエルに与えられました。
 私たちもまた、ハンナのように募る憂いやいら立ちに苦しむことがあるでしょう。このような時には、全ての事について感謝して、心を注ぎ出して祈りましょう。その祈りはあなたの人生を変え、また世界を変えることになるかもしれません。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年7月2日号(第943号)より転載—

2017年6月29日木曜日

刈り込み
 私の子守であるHさんは、盆栽を趣味としていました。休日になると台に鉢を載せて、くるくる回しながら不要な枝を刈り込みます。
 その様子は、イエスさまが、ヨハネの福音書15章で語られたことをほうふつとさせます。イエスさまは「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(12節)と語られました。私たちは、イエスさま流に言うと、ぶどうの木に継がれた枝であって、多くの実を結ばせようと、刈り込みの御手が入るのです。
 それは時には厳しく、心痛むものです。しかし、「後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(へブル人への手紙1211節)と書いてあります。
 神さまは私たちの霊の父です。刈り込みが許されることについては、このように書かれています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたが、だれでも受けるこらしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。(中略)肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」(同7~10節)
 神さまは愛のお方です。ですから、その叱責(しっせき)は何よりも尊いと私は思います。なぜなら、その叱責は必ず私たちを鍛え、成長させ、そして、神さまのみこころを行う者へと建て上げていくからです。神さまの刈り込みを感謝しましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年6月25日号(第942号)より転載—

2017年6月18日日曜日

ザアカイ
 ザアカイは、エリコに住む取税人の頭です。エリコは交通の要所で、地の利を得て、彼は莫大(ばくだい)な富を築きました。しかし、人々は不正を行い、税を取り立てたザアカイのことを、罪人(つみびと)と呼び、彼を嫌っていました。
 イエスさまがエリコに入ると、大勢の群衆がイエスさまを取り囲んでいて、背の低いザアカイはイエスさまを見ることができません。また、ザアカイが見えるようにと場所を譲ってくれるような人も誰もいません。
 そこでザアカイは、イエスさまを見ようと前方に走り出て、いちじく桑の木に登りました。イエスさまはちょうどそこを通り過ぎようとしたところで、ザアカイを見るとこう言われました。
 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(ルカの福音195節)
 ザアカイは大喜びでイエスさまを迎えました。人々はそれを見て、イエスさまは罪人のところに行って客となられた、とつぶやきました。しかし、ザアカイは気にする様子もなく、イエスさまを迎えます。そして、宴たけなわになると、ザアカイは立ってイエスさまに言いました。
 「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(8節)
 それを聞いたイエスさまは、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」(9節)と語られました。
 確かにザアカイは罪人でした。しかし彼は、罪人のところへ行って客となられたと語った群衆よりも、はるかに救いに近かったのです。イエスさまの愛は彼を立たせました。あなたのところにもまた、イエスさまは来てくださいます。ザアカイ同様、子どものような心を持って神に立ち返りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年6月18日号(第941号)より転載—

2017年6月12日月曜日

 
 孟子は性善説を説き、人の本性は善であると語りました。荀子は性悪説を説き、人の本性は悪であると語りました。どちらであるかという議論は昔からさかんになされています。
 神さまが人をお造りになったので、人はもともと良きものであったはずです。しかし、人類の祖であるアダムとエバは、禁断の実を食べ、神に背き、罪を犯しました。そこから人類に死が入ったのです。罪は死をもたらし、死が人を支配するようになりました。ですから、性善説にも性悪説にもそれぞれ一理があります。
 また、人はよく赤子、幼子を前にして、罪も穢(けが)れもない子たち、と言います。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 私には、年子の妹がいます。彼女が誕生して、自宅へ帰ってきた時、私は窓辺でずっと外の景色を眺めていたそうです。「こっちに来て、赤ちゃんにあいさつして」と呼ばれたところ、一直線に走って来て、あっという間に、布団に寝かされている赤ちゃんの上を踏んで次の間に走り去って行ったそうです。
 げに恐るべきは幼子の嫉妬です。産まれてまだ1年そこそこの幼子でさえ、母の乳房(ちぶさ)をめぐると、大人と同じように嫉妬の情を抱いたのです。人の罪は何と根深いものでしょう。
 罪は行いに限らず、何もしなくても、アダム以降、私たちの存在自体に組み込まれている罪があります。それを原罪といいます。この原罪故に、人類は神を知ることができず、神の祝福を受けることができません。それ故、イエスさまは、私たちを贖(あがな)い出すため世に来られ、十字架で死なれ、3日目に復活し、救いを成し遂げてくださいました。主イエスを信じるなら、主は永遠のいのちと祝福を与えてくださいます。心にイエスさまをお迎えしましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年6月11日号(第940号)より転載—

2017年6月7日水曜日

種蒔きのたとえ
 最近、悩んでいる事があります。物忘れがひどいのです。特に大事な事を忘れてしまいます。年齢から来るのと思っていましたが、必ずしもそうではないようです。霊的な側面も考慮していく必要があるようです。
 救われて半年ばかりたったころ、日曜日の礼拝で牧師が、興味深い事を語りました。サタンは神のことばを取りに来るのだ、というのです。これだけを聞いているなら、極端な意見だと冷笑を買うばかりでしょう。
 しかし次に、牧師さんは「先週の私の説教は何を語ったか覚えていますか」と私たちに問い掛けられたのです。これを聞いて皆は、一様にあぜんとし、言われてみれば…と顔を見合わせました。きれいさっぱり忘れてしまっているのです。
 ルカの福音書では、8章に「種まきのたとえ」と呼ばれる箇所があります。5節にはこのように書かれています。「種を蒔(ま)く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった」
 この一文の解き明かしは12節です。「道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです」
 前週の礼拝説教を覚えていないのは老化のせいではなく、悪魔が神のことばを持ち去ってしまうからなのです。こういう訳で、物忘れは老化もありますが、それ以上にサタンが介在しているのも多くあります。
 ですから祈りが必要です。敵は神のことばを奪い、私たちを祝福から引き離そうとしているからです。祈りをもって、正しい心で神のことばに聞きましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年6月4日号(第939号)より転載—

2017年5月28日日曜日

 いじめ
幼子から、老人に至るまで、どの場面もいじめがあります。これは私たちが原罪を持つ罪人であることを証明しています。一人一人はそれなりにわきまえを持ち、普段は特別悪人だというわけではありません。しかし、集団になると異なります。
 ソロモンは、箴言で、「憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現れる」(2626節)と書きました。いじめる側は集団ですから、特別な連帯感の中で、さほどの罪の意識なく、その人を殺すようなことに加担してしまうのです。
 詩聖タゴールもまた、「『人々』は残酷だが『ひと』は優しい」という言葉を残しました。優しい「ひと」を残虐な殺人者に変えてしまうのが、罪であり罪の力です。個人は良い「ひと」であったとしても、「人々」すなわち集団になると、人は別な顔を見せる、というのです。
 私のイメージでは、いじめはアマゾン川に生息するピラニアです。頑丈な牙を持ち、川に入ってきた家畜に一斉に飛び掛かり、遠慮会釈なく食い尽くします。
 ピラニアが一斉に襲い掛かるありさまは、特定の人をターゲットにした集団のいじめに酷似しています。多くの場合、この戦いは多勢に無勢です。死にたくないのはやまやまでしょう。しかし、もう道がない。追い詰められて、最後の選択肢、死を選んでしまうのです。
 イエスさまもまた、いじめを知っておられたと言えるでしょう。無実なのに有罪とされ、唾をかけられ、平手で打たれ、十字架を担わされました。
 神さまは、誰が死ぬのも望んでおられません。イエスさまはあなたを知ってくださっています。あなたの救い主であり、助け主です。そういう訳で私たちは死ではなく、神にあっていのちを選びましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年5月28日号(第938号)より転載—